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鈴木壮治の【言いたい放題】

第40回 グローバル濁流へ対峙する「新国家主義」

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写真は、文意と関連なく、季節の風景を入れています。ロード毎に変わりますのでこちらもお楽しみ下さい。

平成24年3月11日。

 天皇陛下は、東日本大震災慰霊祭にて、静謐な中、凛とした佇まいを示された。

 そのお姿に、陛下の強い意志を感じた。

 それは、「国民のため」という志向性の極限の地を踏まれているがゆえに発せられると思う。

 その志向性が、政治、経済などにより構成される日本の社会には乏しいと考える。

 よって、その志向性を奮い起し、国民を守るための道筋に迫ってみたい。

 一年前の3月11日、善良で、明日を信じ、つつましく生きていた人々に、不条理で過酷な猛威が襲った。何も悪いことはしていない、家族の笑顔に励まされ、贅沢をせず一生懸命働いてきた人々を、なぜ、天は召したのか。

 国民の誰もが感じたその悲しい思いは、自らの境遇を見つめ直し、明るい未来のため、道を切り拓き、「新国家」を手にすることで、消し去るしかない。

 今は、多くの人々にとって、辛く厳しい時である。グローバル化が進む金融と経済の動きに、国民のための政治がついていってない。その結果、国民の多くは、「周辺の民」の境遇に陥っている。

 「周辺の民」とは、世界の流れから切り離されるように、国内に留まり、グローバリゼーションの恩恵を受けず、貧窮に喘ぐ人々である。資本主義の中にあって、貧困という過酷な環境は、人々の他に対する依存度を高め、思考の主体性を奪う。

 カナダの心理学者、ブレーズ・アレクサンダーは、「ネズミの楽園」と称する実験で、人間も、過酷な環境に置かれると、依存性が高まることを明らかにした。

 その実験とは、食べ物、生活空間そして温度調整などで、環境を快適にし、そこで飼ったネズミと、真逆に、ゲージに閉じ込められ、劣悪な環境下で飼育されたネズミを比較したものである。

 快適に飼われたネズミと、過酷な環境下で飼われたネズミに、モルヒネの入った水を与え、どちらが依存症になりやすいかを調べた。

 その結果、恵まれたネズミは、その殆どが、モルヒネ水に興味を示さず、モルヒネ水を飲み中毒になったものも、それから抜け出すことができた。

 一方、劣悪な環境下で飼われたネズミは、モルヒネ中毒になり、それから抜け出すことができなくなった。

 その悲しい姿は、困窮に苦しむ「周辺の民」に重なる。

 その「周辺の民」は、様々な権力の介入に対して無防備である。

 現代フランスにあって、代表的な哲学者であったミシェル・フーコーが、生政治学(Bio-Politics)という言葉を使い、権力が個人の内面にまで食い込んでくることを知らしめた。彼は、従来の抑圧型の法による権力行使ではなく、人々をある仕掛けにより、心から服従させる権力のもう一つの姿に迫ったである。

 19世紀のフランスでは、囚人が、看守に監視されているかどうか確かめようがないが、間違いなく監視されていると思わざるを得ない監獄建築が、一世を風靡した。

 ミシェル・フーコーは、著書「監獄の誕生 監視と処罰」で、その監獄のつくりを、囚人を知的に強制させる比喩に使った。

 その監獄の一つが、ジェレミ・ベンサム(功利主義の創始者として有名な、英国の哲学者・経済学者・法学者)が考えた監視装置、パノプティコン(一望監視装置)である。

 その監獄は、監視塔を中心に丸く取り囲むように建てられ、囚人の全てを、看守が一望に見渡すことができる。しかし、囚人からは、看守を見ることができない監獄のつくりである。囚人は、見られているかもしれないという強迫感より、自らを抑制し、結果において、「心理的矯正」がなされる。

 18世紀後半、英国の経済学者、アダム・スミスは、「国富論」の中で、「神の見えざる手が、市場価格を決め、経済的な取引を成立させる」と述べている。

 そのアダム・スミスの流れをくむベンサムは、自由放任の原則は、個人主義と社会正義のバランスをとり、その関係を安定させると主張した。その彼が、抑圧的な権力とは異なる、監視による規律・管理型権力を体現する牢獄を構想したのは、興味深い。社会における相互監視、自己監視が、強引な私益追求を抑制するとでも思ったのであろうか。

 そのようなものとして、「世間の目」なるものがあり、それは、個々の人、共同体の倫理規範として、侮りがたい力を発揮してきた。

 共同体を構成する個人の独自の価値観から独立したものは、宇宙の塵がぶつかり合いながら一つの星となるように、共同体全体の意志を担う「世間の目」をつくる。そして、その集団意志は、構成する個々の人々の考え、生活の規範までを縛る力を持つ。

 情報通信テクノロジーの急速な進化は、双方向に人々をつなげるネットワークを、地球を絡みとるように広げた。

 そのグローバルネットワークを駆使し、ある勢力が、一般大衆が何をし、何を考えているかを知る力を持ち、アントニオ・ネグリ(イタリアの左翼思想家)が言うように「ポストモダン(帝国主義段階以降の現代資本主義)的な社会の中で、人間の生活または生そのものが、資本によって、実質的包摂の対象となる」を実現せんとしている。

 Google(インターネット検索大手)そしてFacebook(8億5千万人もの会員を持つソーシャル・ネットワーキング・サービス)などの情報ネットワーク権力とも言える存在は、共同体の「世間の目」とは異なり、私益による意図を人の心まで入り込ませ、グローバル社会秩序を捻じ曲げる程の生政治的権力を持ちつつある。

 Googleは、web(インターネット網)利用者の行動を効率よく把握する機能を高めている。

 2012年の3月1日に、Googleは、Google検索他、Gmailなどの60種類以上のサービスを利用者ごとに一元化し、利用者がアクセスしたデータを統合し始めた。

 それは、webを利用する個人のあらゆる行動(どのサイトを見たか)が密かに追跡され、監視されるリスクが高まることを意味する。

 それは、囚人からは見えないが、看守からは絶えず監視されうるパノプティコンそのものである。

 趣味、趣向、さらには、医療及び予防医療を目的に、個人情報(Big dataと称される)が集められている。その結果、個人の心身の情報が丸裸にされ、企業、諸々のグループそして国家などが、その情報を使って効率良く、ある意図を個人の意識に染み込ませることが可能になったことを示す。

 情報ネットワーク権力による個人情報の集約化と大規模化が加速しており、現在の世界のデジタル情報の90%は、ここ2年間で蓄積された。

 その動きを事前に知っていたがごとく、米国政府は、2年程前の2010年5月21日、NSA(国家安全保障局)の中に、新たに、サイバー軍を創った。

 我々は、情報の網に絡め取られ、生政治権力のしもべになることを避けるために、知を鋭敏に研ぎ澄まし、心の内部まで押し寄せんとする何かを捉えなくてはいけない。

 その何かは、普遍的な概念に、自分に都合の良いように、化粧を施した「概念」を駆使し、私益を追求する存在である。

 例えば、新自由主義者は、規制緩和による民営化、グローバル市場の自由化などを加速させるため、資本主義体制下のある階層のみに許される「自由」を、自由という普遍的概念にすり替え、その「自由」が、全階層にとっての自由のように見せかけた。

 先日、世界の30ヵ国以上に拠点を持つ多国籍企業の総帥と親しく会食する機会があった。単刀直入に、「国と企業の関係を、どのように捉えているのか」と、彼に聞いた。

 即答であった。

 「horse and rider」、すなわち、彼の言わんとするところは、「国が馬で、企業は騎手、馬の乗り具合が悪ければ、乗りかえるだけ」であろう。彼らの言う「自由」が良く分かる。

 また、金融資本は、いともたやすく、自由に、国を超え、国家そのものの財政を借金体質に追い込んできた。

 例えば、天然資源に恵まれた新興国に、その開発のために、巨額の資金を貸し付け、借金まみれにしてきた。そして、グローバルな金融権力構造に、負債で苦しむ国家を組み込み、支配している。

 巨額な累積債務を抱えた国家は、国家負債の民営化とも言うべき、社会福祉削減、増税を行わざるを得ない。それらは、「周辺の民」の犠牲によってなりたつものである。

 その「周辺の民」になりつつある日本国民の心のうちに迫り、「周辺の民」からの脱却の道を探りたい。

 戦後、日本は、米国に依存せざるを得ないとする「洗脳」を受けてきた。それにより、国家としての自立を未だ達成できないでいる。憲法の前文中の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」に、明確に米国の日本を自立させないとした戦略的意図を見出せる。

 米国は、日本を支配する概念として、核の傘(拡大核抑止力)を使ってきた。しかし、今や、米国の核攻撃に対して、中国は第二撃能力を持ち、既に、中国に対しては、米国の核の傘は形骸化している。

 しかし、核の傘は、洗脳から覚めやらぬ日本に対しては、支配概念としての有効さを保ち、日本は、軍事以外の分野においても、対米追従を行っている。

 自立性が乏しい日本は、自国民を、新たな洗脳ともいうべき動きに対して、脆弱な存在にしてしまっている。

 その洗脳とは、「周辺の民」を対象に、金融と情報通信のグローバルパワーと超大国との結託により行われる生政治権力の行使である。

 それに対抗せんとして、ネグリ&ハートは、マルチ・チュードと言うグローバル市民の構成概念を持ち出し、大衆の力の結集を呼び掛けている。

 彼らは、その共著「マルチ・チュード」の中で、「人々の集まりが、多数の異なる個人や階級から成ることは言うまでもないが、人民という概念は、これらの社会的差異を一つの同一性へと統合ないし還元する。これに対し、マルチ・チュードは、統一化されることはなく、あくまでも、複数の多様な存在であり続けるのだ」と述べている。

 しかし、共同体を成すには、共通の文化伝統、価値観などが必要不可欠である。よって、グローバル市民という共通概念が、グローバル共同体を生み出し、彼らの言う「帝国」、すなわち、超国家的ネットワーク権力に抵抗するのは困難である。

 大衆が、新たな洗脳に対抗するには、グローバル社会と個人の中間に位置し、最大の共同体である国家の中で、国民として、力を結集したほうがよい。各国の国民が織りなす多様性、独自な価値観と文化などは、国民国家の個性として守られるべきであり、それが無いと世界は一元的で硬直したものになり、私益を求めるグローバルな勢力に対して、脆い存在となる。

 H.G.ウェルズは、「来るべき世界」(1933)で、21世紀半ばには、日本が主導し、世界が統一されると大胆に予言した。日本人としては、面映ゆいが、文明批評家でもあるこの英国人の作家は、他の文化を許容し、多元的で多様性のある社会の中でも、安定を醸し出す懐の深い日本に、100年後の世界を託したかったのであろう。

 長年にわたり、島国の国土に流れ着いた多様なものを包摂してきた日本文化は、異なるものに対しても寛容な神々の国である。

 多様性の中に安定を求めるべき21世紀の世界にとって、日本の存在はきわめて重要な意味を持つ。

 日本は、国家共同体として、多様性に溢れる自らの文明と文化に根差した政治と経済システムを擁し、多国籍な巨大資本と超国家との結託による「世界の一色化」を抑え、多彩な色に染まる世界にする役割を果たさなくてはいけない。

 しかし、いまのままの日本国家では、H.G.ウエルズの期待に応えることはできない。

 自立せず、国家としての安全保障の論理「自らを自らで守る」を失ったままの日本国家では、国民も日本企業も、日本を盾にして、生来の個性溢れる多様性を発揮することができない。

 政治の役割は、日本社会の底に沈み込んだままのその論理を引き上げ、それに命を吹き込むことである。それこそが、戦後続いている米国による洗脳から脱却する道である。

 グローバリゼーションが進み、国家同士の鬩ぎ合いの機会も増え、国際交渉の一つ一つは、多岐の分野に絡んでいる。

 また、放射能汚染を含んだ地球環境の劣化、インフルエンザの蔓延、グローバルテロ、核拡散そして金融問題も、グローバル規模の広がりを持ち、各国の安全を脅かしている。それらは、一国だけでは解決できず、諸国間の協力的な安全保障の枠組みが必要である。

 東日本大震災・福島原発事故で、143もの国と地域から、日本へ、支援の申し出があった。このような各国の動きは、非軍事分野における安全保障の国際的な協力の輪に広がる可能性を秘めていた。

 その輪を広げ、軍事分野も含んだ総合的安全保障体制に持っていくためにも、日本は、安全保障における主体性を取戻し、集団的自衛権を行使できるように憲法の政府解釈を見直すべきである。

 現在の複雑化した世界の動きは、速くそして大規模である。その濁流から、国民を守るために、日本は軍事に加え、国際金融、エネルギー、食糧など、グローバルに展開する分野を包括的に取り込んだ統合的戦略を構築、ダイナミックに実行できるようにしなくてはいけない。そのためには、国家の瞬発力が必要である。

 しかし、日本は、その瞬発力を欠いている。

 最大瞬発力を発揮するためには、その直前における最大弛緩が必要である。国家が緩むとは、どのようなことであろうか。武道の一つである空手を例にとってみたい。

 突きにしても蹴りにしても、身体の最大瞬発力が生み出すものである。そして、その前に最大弛緩が要る。

 屹立する体軸(武道では、正中線と呼ぶ)が、しっかりと大地を垂直に貫くように整うことで、全ての筋肉そして関節に力を入れる必要が無くなり、身体の弛緩は最大になる。

 国家にとっての正中線は、「自らを自らで守る」と言う国家意志である。また、正中線は、大腰筋などの深層筋肉(インナーマッスル)で支えられる。国家の危機に速やかに対応できる法的な備えは、それに匹敵する。

 しかし、国家としての生存の瀬戸際に立たされた時、現在の法体系では、国家としての最大限の瞬発力を発揮することができない。

 例えば、有事以外の緊急事態に対しては、「大規模地震対策特別措置法」・「災害対策基本法」・「原子力災害対策特別措置法」があるが、それを統括する法は無い。国家緊急権を所与のものとし、それらを統括する「緊急事態基本法」を整備すべきである。

 また、日本において、安全保障に関する国策の最終決定権は、閣議にあり、安全保障会議にはない。安全保障会議は、国防に関する重要事項及び重大緊急事態への対処に関する重要事項を審議し、意見を述べる諮問機関でしかない。

 米国の安全保障会議は、日本と同様に諮問機関である。しかし、議長が、最終決定権を持つ大統領であり、会議で安全保障に関する迅速な決定を行うことができる体制になっている。

 その米国の隔絶する最大瞬発力とグローバル巨大資本との結託を危惧した欧州諸国は、EUを創った。しかし、金融と財政の複合危機で、EUの足元は揺らいでいる。

 ハーバード大学教授で政治哲学者のマイケル・サンデル教授は、「巨大化した経済は、共同体の規律を破壊し、市民から、その自治のための道徳的な能力を奪い取った」と言った。

 そして、巨大化したグローバル経済を手なずける政治制度が必要であると力説している。それは人類の連帯に基礎を置くコスモポリタン的な共同体ではなく、国家の主権性が拡散した諸々の共同体および政治体制であるとし、EUのような超国家組織、または、地方への主権の分権(地方分権)が、グローバル巨大資本から、市民を守るのに、有効であると提唱した。

 1997年に発足したフランスのジョスパン内閣で外務大臣を務め、ミッテラン大統領の外交顧問もつとめたユベール・ヴェドリーヌは、アメリカの9.11以降の対テロ戦争を支持しつつ、「同盟すれども、同調せず」という名ぜりふを吐いたので有名である。

 その彼は、「欧州統合は、いつの間にか、トロイの木馬と化し、その中から、自由市場とグローバリゼーションが出てきた」と、言って、鋭くEUの本質に迫った。

 今、その言は、金融そして財政危機に苦しむEU諸国にとって、耳が痛い指摘となって、蘇っている。

 1970年代、国家主権を超国家組織に差し出す構想の実現に向かって、国民国家としての力が弱まってきた欧州諸国を皮肉って、ヘンリー・キッシンジャーは、「ヨーロッパというが、いったい、どの番号にかければいいんだ?」と言った。キッシンジャーは、国家という共同体を喪失した欧州の将来を危惧したのであろう。

 こうした国家主権の彷徨により、政治が金融と経済に翻弄され、国民は資本の私益追求により、虐げられている。

 国民を守るためにどうすべきか。

 企業の資本の論理を倫理性で抑制し、社会における富の偏在を防ぐべきである。

 幕末に活躍した思想家である横井小楠は、その語録の中で、

 「尭舜孔子その道を明らかにし
 西洋器械の術を尽くさば
 何ぞ強兵に止まらん
 大義を四海に布かんのみ」

 と論じた。幕藩体制を超え、世界を相手にする横井小楠の気宇は壮大であり、その思想は公共の天理という言葉で表される。

 仁の心を行動基準とする列強とはつき合うが、その心を持たぬ列強とは闘うとして、欧米列強の覇権主義に厳しい態度を取った。まさしく、行動の価値判断に、倫理性を見出した思想家である。

 今、横井小楠が生きていれば、倫理性に欠け、資本の論理のみを追求するグローバル資本に鉄槌を下したであろう。先述のように、新自由主義経済が拠る資本の論理を抑制する概念は、倫理である。

 倫理は、目的のためには手段を選ばない強引さを抑制する。そのためには、倫理を持つ存在が、思考と行動における主体性を持たないと、行動に倫理性のある秩序を与えることができない。

 それからも、国家が倫理共同体として機能するためには、自立が大前提であることが容易に理解される。

 日本がそのような国家共同体になれば、私益を、普遍的価値である自由、人権などで飾り、日本国民の心に浸透させ、操ろうとする輩を、凛として退けることができる。

 しかし、戦後半世紀以上、経済大国への幻想に酔わされながら、日本国家は、悲しくも、日本と日本人を守れないできた。

 『なぜ北朝鮮は崩壊しなかった』(荒木和博著、光人社)に一つの例が述べられている。

 平成17年6月14日、参議院内閣委員会で野党議員から「どうやって具体的に拉致被害者を取り返すのか」という質問を受けて、当時の細田博之官房長官はつぎのように答弁した。

 「先方も政府で、彼らの領土の中においては、あらゆる人に対する権限を持っておりますので、これは我々が説得をして、そして彼らがついに、実は生きておりました、全員返しますと言うまで粘り強く交渉することが我々の今の方針でございます」。

 説明するまでもなく、情けない国家の姿がくっきりと浮かび上がってくる。

 主体性の無い日本のままでは、経済においても、米国に追従し、国民経済を蔑にし、財政と金融危機に瀕する米国と欧州もろとも、「恐慌」が口を開ける谷底に、滑り落ちてしまう。

 社会民主主義を推進する左派は、国家に依存する「大きな国家主義者」となった。そして、右派は、企業に有利なグローバリゼーションと新自由主義経済へと大きく舵を切り、国民を資本の論理に従わせた。

 そして、国民の生活を国庫で必死に支える社会福祉国、そして、企業を手厚く扱う国も、金融危機で瀬戸際まで追い込まれた銀行救済に税金を使うなど、財政赤字を膨らませた。巨額な累積財政赤字は、結局、国民の首を絞めつける。

 左右に分かれた国家体制のうち、右派の代表格となったのはアメリカのブッシュ政権だった。

 そして、それに従った小泉・竹中路線は、国家と巨大資本が連携するアメリカのステイト・キャピタリズム(State Capitalism=国家資本主義)に抗することもなく、国民を、強欲な資本の濁流に引き入れ、「周辺の民」におとしめた。

 彼らが推し進めた新自由主義経済は、経済合理性を追い求める価値観の普及、労働の変動コスト化、画一的な大衆消費の喧伝など、資本に都合の良いように、日本の社会を作りかえた。そして、国民を優しく包んできたものを剥がし、放り出された人々に自己責任を問い、敗者の切り捨てを行い、多くの人々を路頭に迷わせた。

 フランスの哲学者であるドゥルーズと精神科医のガタリが、共著「ミル・プラトー」で展開した概念が、フランス語で根茎を意味する「リゾーム」である。

 それは、現代思想において、相互に関係が無く独立し異質なものが、階層的な主従関係ではなく、横断的で水平的に結びつく概念である。

 幹、枝そして葉により階層的な秩序を持つ樹木に対峙するものが、「リゾーム」である。

 人々が「周辺の民」として、絶望の淵に追い込まれると、自然発生的に、憎悪と暴力が人々を絡め取り、増殖し、その規模が増す。

 それは、まさしく、人の精神的土壌に、絶望と憎悪の茎「リゾーム」が、絡むように密生するのに似ている。

 このようなおぞましいことを想像せざるを得ない状況を作った小泉政権は、2006年9月に退陣したものの、その後遺症は大きく、2009年には、日本の相対的貧困率は16パーセントに達し(2003年は14.9%)、OECD諸国において下から二番目になってしまった。相対的貧困率とは、等価可処分所得が、全国民の等価可処分所得の中央値の半分に満たない人の率のことである。

 私益を追求する資本の傍若無人の振る舞いは、生活そして人間の存在そのものを左右するまでになっている。

 その資本の乱暴狼藉から、国民を守らなくてはいけない。

 その跋扈を押しとどめるのは、政治、経済そして文化伝統を包摂する倫理的存在である自立した国家共同体である。それは、もともと社会的な存在である企業を、傲慢な資本の論理から切り離すように、国家共同体に取り込み、企業と社会の共生を生み出す。

 そのような動きが幾つか出てきた。

 例えば、米国のハーバード大学経営大学院教授のマイケル・ポーターは、CSR(Corporate Social Responsibility=共有価値の創出)を提唱している。

 彼は、企業と社会との間で価値を共有するためには、お互いに利益を得られるようにしなくてはいけないと考えた。そのモデルがスイスのネスレ社である。原材料を地域農家に依存している同社は、地域の小規模酪農家が環境に対する意識を高め、より健康な家畜が育てられるように、支援を行っている。

 また、東京都が主導して実現しようとしている日本初の「官民連携インフラファンド」は、首都圏の電力供給の安定化という公益追求を理念として掲げ、天然ガス発電プラントと再生可能エネルギー発電施設などへ投資するものである。その官民連携は、新自由主義の小さな政府と、ケインズ主義政策の大きな政府の間に割って入り、企業と社会の共有価値を高め、地域経済を支える。

 これまでに述べた社会とは、国家共同体の体現であり、その「助け合う」という倫理規範が、企業を社会性に手繰り寄せ、企業と社会の共生により、新たな価値を創りだすのである。

 現代フランスの中国学の学者であるレオン・ヴァンデルメールシュが、荀子の次の言葉を引いて、家族的な関係による儒教の共同体主義の神髄を紹介している。

 「水火には気があるが生命がなく、草木には生命があるが知覚がなく、禽獣には知覚があるが、義すなわち社会正義がない。しかし、人間には気があり、生命があり、知覚があるうえに、さらに義もある。だから、この世界で最も高貴なものである」。

 ヴァンデルメールシュは、荀子のその思想から、人間は、単なる社会の構成員ではなく、社会正義に価値を見出す社会的存在であるとし、そこに人間の尊厳を見出している。

 アメリカが作った日本国憲法の第十三条では「すべての国民は個人として尊重される」とし、日本人が持っていた共同体思想を葬り去った。そして、日本は、戦後、アメリカの軍事的庇護のもと、我欲の徒(あだ)花(ばな)を咲かせた。

 しかし、それは、アメリカから用意された甘い水の水耕栽培で育てられた花であった。その結果、国家としての自立性を失い、主体者として、国家間の軋轢の中で、丁々発止を行うことができず、世界に通用する国際的な社会性を、日本は身につけることができずにきてしまった。

 日本が「大人」として振る舞えない世界は「闘技場」であり、民主主義国家、独裁国家そして巨大資本が鬩ぎ合っている。

 しかし、その中で、国民国家が持つ多元的で多様性に富む文化や伝統を守ることは、世界文明の強靭さを保つために必要なことである。国の力が弱まれば、国の砦は破られ、画一的で面白くもなく、何の魅力もない、のっぺらぼうな顔をした地球になってしまうであろう。

 苦難の地にある「周辺の民」は、私益を追求する巨大資本などのグローバルなものの餌食にされてきた。その境遇より脱するためには、人々は、国家共同体の倫理規範に価値を見出す社会的な存在として、結集すべきである。

 そのためには、まず倫理規範を体現する国家そのものの自立が必要である。その国家の自立のためには、安全保障の論理「自らを自らで守る」が機能し、危機に際し、国家が最大瞬発力を発揮できる国家体制が整っていなくてはならない。

 国家共同体固有の倫理規範は、資本の論理を凌駕する。倫理性が乏しい国家は、いともたやすく、自由主義経済と市場原理主義に取り込まれ、多くの国民を「周辺の民」にしてきた。

 互いに助け合うという倫理は、東日本大震災で被災された人々の姿に体現された。人々は、地震、津波そして原発事故が連なり襲った極限的な状況下で、整然と行動し、助け合い、地域社会の秩序を守った。個々の私欲を包み込み、お互いに助け合う人々に、戦後の日本が表に出すことを躊躇した「共同体精神」の復活を見た。

 「経済倫理学のすすめ」(竹内靖男著・中公新書)は、福祉国家の根本思想に迫り、その本質を抉り出している。それは、利己主義と私的慈善の国営化による個人の責任解除である。万人は、弱者になりうる。そして、弱者になった場合、国家より慈善サービスを受けられる権利を有し、お互いに助け合う気持ちは生まれてこない。

 そのような受動の民は、人々の生を人口として捉え、その調整により、おのれの都合の良い社会にもっていこうとする生政治権力に抗うことができない。

 お互いに助け合うという倫理は、福祉国家の根本思想に挑戦し、共生による弱者の自立を支える。

 互いに助け合うという倫理規範を持つ国家共同体はその内部に、私益追求の資本の論理を凌駕する社会と企業の共生を孕み、経済の成長と社会の安定につながる新たな価値を生み出し、グローバルに展開する生政治権力を抑止する。

 自立し、倫理性に富む国家共同体を成す日本人は、その叡智と勇気を結集し、強奪の資本の論理と武力による恫喝の論理で混濁するグローバル濁流を堰き止め、清冽な流れをつくる。

 凛とした「新たな国家」の誕生である。

「正論」(平成24年9月号)に掲載/p>

( 2012年10月15日 / 鈴木壮治 )

※記事の無断転用・掲載は、厳禁する
鈴木壮治 / SOJI SUZUKI
一橋総研 統括責任者
株式会社日本リスク管理研究所・代表取締役
NPO法人・新日華産業技術フォーラム・理事
財団法人・日本科学振興財団・理事
一般社団法人・日中文化経済交流発展基金会・理事
日本ラオス文化経済交流協会・理事

静岡県浜松市出身。米国ペンシルヴァニア大学・大学院ウォートンスクール経営学修士(MBA)取得後、1975年 三井物産入社(化学プラント部)同社で2年間の米国研修を経て、1987年シティバンク入社。デリバティブ・ヘッジファンド担当のアシスタント・バイス・プレジデント。1989年からはチェースマンハッタン銀行のバイス・プレジデントに就任。その後、1996年に株式会社日本リスク管理研究所設立・代表取締役就任。現在に至る。共著に『宣戦布告「NO」と言える日本経済』(光文社)、『国家意志のある「円」』(光文社)、『アメリカ信仰を捨てよ』(光文社)、『「日本浮上」プロジェクト』(ブックハウスジャパン)などがある。
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■第45回 尖閣諸島・北方領土に繋がるウクライナ危機
■第46回 地方創生と脱国家時代のナショナリズム
■第47回 安全保障法制考究と日本の安全保障
■第47回 安保法制そしてアベノミクスで日本を守る!
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